Rerolling Boardgames

Rerolling Boardgames (Ed. by Douglas Brown & Esther MacCallum Stewart / McFarland 2020)



***第0回ハンドアウト

ボードゲームに関する論文集。もともとは2018 年に出版される予定だったらしい( 2016 年の Digra の記事にそ
う書いてある)。編者のうち、Esther MacCallum Stewart は、ゲームにおける性を主な関心領域とする学者(指輪物語や SF に関して書かれたものもある)。イギリスのひと。 Digra や Digra UK にも深く関わっている。英 Staffordshire Univ.
で Associate Professor 。 Dr. Douglas Brown は元々スクエニで FF12 製作などをやってたのがアカデミックキャリアに移ってきたひとで、英 Falmouth University の Games Academy で Director をやっているとのこと。

序文によれば、各論文の内容は概ね下記の通り。

■第一部 テーマ

Playing for Time (by Paul Booth)
ボードゲームにおいて時間がテーマ的モチーフとしてどのように用いられているか検討し、またそのことが、本質的にプレイが線形であるこのジャンルにおいて何を意味しているか検討する。
後半ではレガシーについて検討する。

Collaborative Games Redux: New Lessons from the Past 10 Years (by Jose P. Zagal)
協力ゲームに関するこの10 年で得られた知見をもとに、協力的プレイについてのどのような制約が満足なプレイを促進するのか検討する。
(著者が10 年前に書いた協力ゲームに関するエッセイの続き)

Twilight Struggle, or: How We Stopped Worrying About the Hexagons (by Giaime Alonge & Riccardo Fassone)
先行作例と比較しながら、トワイライトストラグルが如何にして歴史ウォーゲームを要約化したか、ボードゲーミングの戦略的プレイのラインに沿ってデベロップされたか検討する。

■第二部 システム

Materially Mediated: Boardgames as Interactive Media and Mediated Communication (by Joe A. Wasserman)
プレイは物理的コンポーネントによって仲介されるものであり、コンポーネントを介したプレイヤーの相互作用を通じてゲームは核となる複雑なアイデアを伝達できるのだ、と論じる。

More Than the Sum of Their Bits: Understanding the Gameboard and Components (by Melissa J. Rogerson, Marting Gibbs & Wally Smith)

各種の駒などがこの5 年間どのように使われてきたかという観察を通じて、各種コンポーネントが持つレトリカルな目的と、 Playful 理論およびデザインの観点から見た広い意味を論じる。

A Mixed Blessing? Exploring the Use of Computers to Augment and Mediate Boardgames (by Karl Bergstrom & Steffan Bjork)

ボードゲームにおけるアプリ等の使用の発展を振り返った上で、そのようなアプリ等がボードゲーミングのプレイにどのようにしてさらなる統合を果たしていけるのか問う。

■第三部 体験

Gamifying Salvation: Gyan Chaupar Variants as Representations of (Re)Birth and Lives (by Souvik Mukherjee)
「蛇と梯子」が世界レベルで与えた影響を論じ、このゲームの秘教的側面(高潔な生を過ごすことについての文化的な化的なsignifierとして)を検討する。として)を検討する。

Guilt Trips for the Cardboard Colonialists: The Function of Procedural Rhetoric and the Contact Zone in Archipelago (by Dean Bowman)
「アーキペラゴ」を題材に、プレイヤーに植民と奴隷化を奨励する問題含みのデザインについて論じる。

Playing Games, Splitting Selves (by C. Thi Nguyen)
カイヨワやスーツなどの古典的なゲームの理論が、社交的なゲーミングにどのように適用できるか論じる。

■第四部 観念
Narrative Machines: A Ludological Approach to Narrative Design (by Malcolm Ryan, Robin Dixon & Esther MacCallumMacCallum--Stewart)
「The RoadThe Road」のデザイナーズノート。システム的なナラティブの開発。“ナラティブ・ドリブンナラティブ・ドリブン”なシステムの概要。

Designing Analog Learning Games: Genre Affordances, Limitations and Multi--Game Approaches (by Owen Gottlieb & Ian SGottlieb & Ian Schreiber)
「Lost & FoundLost & Found」のデザイナーズノート。教育目的(このゲームの場合はイスラム法の学習)のボードゲームのデザインにおいてどのような点を考慮すべきか。



第1回ハンドアウト

C. Thi Neugen「Playing Games, Splitting Selves」 in 『Rerolling Boardgames』(2020)

著者について:美学者。ユタ大学准教授。単著に『Games: Agency as Art』(2020)がある。学者になる前はロサンゼルス・タイムズ紙でフードライターをしていたとのこと。

タイトルの「Splitting Selves」は、「社交的競争ゲーミング Social Competitive Gaming」の場においては「ゲーム内の、ゴールを目指す自己」と「ゲーミングの場における、共同的な楽しみという目的(purpose)を追求する自己」のふたつが現れ、ゲーミングにおけるモチベーションが複雑なものになる、くらいの意味。

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社交的競争ゲーミングというのは、みんなが共同的な楽しみという目的のためにゲームをしているのだが、その楽しみは完全に競争的なゲームプレイから得られるものである、というような場のことで、文中でそれほど明瞭な定義は与えられていないが、重めのユーロゲームが仲間内で遊ばれるような場が典型。

社交的競争ゲーミングの場では、「自分の目的である楽しむことのために、自分の目的が楽しむことだということを部分的に忘れたかのように振る舞う必要がでてくる」ことがある。これはもちろん、シンプルに勝つだけが目的の「純粋競争ゲームプレイ Wholly Competitive Gameplay」(分かりやすいところでは大金の掛かったトーナメントの場)とは異なるし、逆に勝敗が名目上のものでしかない、純粋に「共同的な楽しみ」を追うだけの状況(主にパーティゲームのプレイ)も異なる。パーティゲームではゲームのゴールを真面目に追わなくても(スーツの「ふざけ屋 trifler」)全く問題無いが、社交的競争ゲーミングの場では大いに問題がある。

「社交的競争ゲーミング」はもちろん、スーツが想定しているような「障害を置いて、それを乗り越える」タイプのゲームにおいてしか現れないもので、もっと言えば、ゲームの種類と完全に一対一対応するものではなくコンベンションっていうかモチベーションに基づいて立ち現れるものなので、スーツ的ゲームにおけるプレイヤーのモチベーションの種類を定義しておく必要がある。

・達成プレイ achievement play 勝利という結果のためにプレイすること。
・奮闘プレイ striving play 勝利を目指してがんばる活動のために、勝利に対する関心を向けてプレイすること。
なお、この区分けは、内在的価値と外在的価値の差異(現実世界に効用が跳ねてくるか否か)とは位相の異なる話だという点に注意。

例えばユールが『art of failure』で行った「障害を乗り越えるという達成のための難しさ」みたいな議論は、達成プレイが暗黙の前提になっているが、奮闘プレイするプレイヤーの概念を導入したほうがより良く説明できる。また、この奮闘プレイの概念は、スポーツの哲学の標準的な態度である「個人的/技能的卓越のためのプレイ」(レポーター注:Characteristics of Gamesの「ヒューリスティックツリー構築のためのプレイ」と通ずる)とも異なる。

社交的競争ゲーミングの場では、奮闘プレイの規範がとりわけ強調される。例えば戦略ガイドを読むか読まないかみたいな時に、達成プレイにおいては読まないという選択肢を取りようがないが、奮闘プレイでは、プレイグループの興をそがないよう敢えて読まずにいるという選択が大いにありうる。社交的競争ゲーミングの場では、勝利への関心は「奮闘するという体験」の為に一時的にゲーム内に持ってきたもので、持続もしないし深層的なものでもない。

社交的競争ゲーミングでは、プレイヤーたちは競争することで協力的に楽しんでいる。この競争を協力に捉える変換は、自動的に成されるものではなく、プレイの文脈とゲームデザインの「構造的特徴 structural features」に依存する。競争的プレイの道徳的位置についてたまに謎の議論を見かけるが(ボクシングで相手を殴るのは相手の目的である技術的卓越の成就に貢献する良き事なのだ、みたいな議論とか、マジックサークル論の極端な形態として「サークル内では何でもあり」とか)、競争を協力と捉えられるか否かは構造に依存する、というほうがずっと自然だろう。極論的マジックサークル論に対しては、一部のゲーム外の道徳が、構造的特徴しだいでゲーム内では別の形に変換されるというだけで、ゲーム外の道徳がゲーム内において遮断されるわけでは全く無い、ということも指摘する必要がある。

それでは真剣過ぎるプレイでも真剣味の足りなすぎるプレイでもない、ちょうど良い「奮闘するという体験」が得られるスイートスポットはどこなのか、という疑問が出てくるが、これは結局プレイヤーの関心と心理で決まるコンテクスト依存の問題だとしか言えない。だから、奮闘の方向性が揃った、同じような関心事を持つプレイヤーを集めるのは、道徳的に称賛されるべき活動だとも言える。

そういうわけで、ボードゲーム(とりわけ社交的競争ゲーミング)をしているプレイヤーは、「一時的な代替アイデンティティ temporary alternate practical identity」とスタンダードなアイデンティティを同時に走らせることになる。そういう状況の例としてボードゲーム(特にゲーマーズゲーム)中のおしゃべりがある。

まず、ゲーム内効果を持つおしゃべり intra-game table talk (ゲーム上の効果を狙った毒舌 interference trash talkを含む)と、そうでないおしゃべり extra-game table talk を分けよう。ここでの関心である extra-game table talk には、以下のようなものがある。
・ゲームに関係無いおしゃべり
・ゲームについてのコメンタリー(ゲームデザインに関する論評とか)
・ロールプレイ
・おどけた毒舌(ゲームの共同的な楽しみを増すためのもの)
これらはみな、共同的な楽しみを得るためのものだ。こういうおしゃべりをしながらの社交的競争ゲーミングは、直接的な方法と間接的な方法の両方で共同的な楽しみを追求しているのだといえる。相手を打ち負かす競争によって間接的に共同的な楽しみを得るのと、おしゃべりによる直接的なものとだ。この構図において、おしゃべりは代替アイデンティティのほうではなく、スタンダードなアイデンティティのほうに作用している。重要なのは、このように遊ぶとき、アイデンティティを入れ替えているわけではなく、ふたつのアイデンティティが並行的に走っているということだ。

このように整理することで、構造的特徴によるゲーム内の行動についての道徳の変換が、毒舌については必ずしも適用されないこともわかる。アグリコラのリソースの多寡は代替アイデンティティにのみ影響しゲーム外の生には関係ないが、毒舌はスタンダードなアイデンティティのほうに作用する以上、ゲーム外の道徳が適用される。加えて、ゲーム内のインタラクションは競争を協力に変換するようデザインされたものだが、毒舌はデザインされた環境の外でなされるものだということも言える。

以上から、社交的競争ゲーミングについて、多少の規範的結論を出せる。競争から協力への変換は、プレイ相手が奮闘プレイを望んでおり、かつその奮闘するという体験を生み出せるような種類の競争を成功裏に提供出来る場合にしか起こらない。2人用ゲーマーズゲームでプレイ中に極端な実力差が判明した場合、もうゲームを止める以外に解決方法は無くなる(途中から手加減するというのは「奮闘するという体験」から外れる)。それから毒舌については、intra-gameのものであれば、プレイヤー達およびゲームの指向が揃っていて道徳の変換が起こっているか否かに依存し、extra-gameのものであれば前述の通り通常の道徳的規範がそのまま適用される。(なお、この毒舌についての結論は、スポーツの哲学でなされる、毒舌に関する倫理的説明とは異なっている。Dixonは毒舌を肉体的卓越にも達成にも繋がらない非スポーツマン的なものとし、Summersは毒舌を鉄火場でのメンタルの強さを鍛えるものだとしているが、どちらもそもそも達成プレイのことしか考えていない。)

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