WORKS OF GAME
by John Sharp
MIT Press, 2015
第1回(序章)
第2回(ゲームアート)
第3回(アートゲーム)
第4回(アーティストゲーム)
第5回(結び)
【序章】
美術館で The Night Journey を遊ぶのは、ゲームコミュニティの中で同作を遊ぶのとは違いがある。
ゲームコミュニティの文脈で遊ぶ The Night Journey は、「ゲーム的文彩の否定」の部分が突出している。
美術館でメディア展示物として提出されていると、アーティストBill Violaのアーティスティックな関心事や技術がビデオゲーム形式に落とし込まれていることが理解できる。
The Night Jouurneyは、どちらのコミュニティが価値として重視するものに対しても価値を持っている。
ここで生じる疑問は、このゲームは、通常はどちらかに対してしか価値を持たない「アーティスト・ゲーム」の例外なのか、ということだ。
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「コンセプチュアル・アフォーダンス」コミュニティが信じるところによる、その形式の芸術作品を作ることで何ができて何ができないか。
例えば13-19世紀まで、絵画のコンセプチュアル・アフォーダンスはまずもって「見える世界のイリュージョニスティックな表現」だった。
「フォーマル・アフォーダンス」コンセプチュアルな目的の実装のために使われ、コミュニティの想定にも沿うような手段。道具、技術、文法、手法など。
たとえば宗教画を描くために守るべき手法やその他がある。
「エクスペリエンシャル・アフォーダンス」それを消費することによって得られる、とコミュニティが期待する体験。
アフォーダンス(より正確にはシグニファイア)の概念は、コミュニティと芸術作品の間の関係に拡張できる。
ゲームについての上記のアフォーダンスを考える際は、どのようなコミュニティ群が文化形式としてのゲームにアプローチしているのか特定する必要がある。
例えばチェスを考えよう。一方には、ゲームプレイヤー/ゲーム製作者にとってのチェスがある。
一方で、アーティストにとってのチェスとは例えば戦争政治的構造、父権社会、人造の二極構造で、アートを作るための素材でありidea spaceだ。
ここでよく似ているように見える3つのゲームを考えよう。「スーパーマリオブラザーズ」「ブレイド(Braid)」「スーパーマリオトリロジー」だ。
「スーパーマリオブラザーズ」は純粋にエンターテイメントを指向したビデオゲームだが、同じゲームの言語と語彙を用いて、この遊びを表現のメディアとして用いたら。
「ブレイド」は基本的にはスーパーマリオブラザーズと同様のプラットフォーマー(ジャンプアクション)だが、ブレイドの主人公ティムには時間を巻き戻す能力があり、ゲームの独自性はここから生まれる。
ドンキーコングのパロディ面では、右から左にティムが動く時は樽の動きは時間を逆行する形になる。
ストーリー上の仕掛けもあり、ティムはプリンセスとの過去の関係について後悔しているのだが、それはティムがモンスターで、プリンセスはティムから逃げているのだ、と明かされる。
ティムはこの関係を簡単に巻き戻せない。ブレイドはいかなる定義においてもゲームだが、エンターテイメント以外のこともやろうとしている。
このゲームは、Jason Rohrerが2005年に提唱した「アートゲーム」に綺麗に当てはまるものだ。
ミュージシャンが商業性よりも芸術性を求めた音楽を作ることがあるように、アートゲームの作者はゲームの表現的可能性の拡張を求めている。
しかし殆どのアーティストはこのような方法でゲームを表現のメディアと見なすことはせず、ゲームを作品のための素材ないし道具と見なしている。
「スーパーマリオトリロジー」のひとつ「マリオバトルNo.1」では、マリオは敵も何もない面をただ時間切れまで走ることしかできない。
ここではゲームとその技術が、ゲームを批評すると共に、人生とその意味についての実存的観念をユーモラスかつ辛辣に追い求めたアート作品を生産する素材として用いられている。
これはブレイドとは別のゲームへのアプローチで、ゲームによって構成されるアート、「ゲームアート」だ。
ゲームとアートの間の関係には、依然として混乱がある。
ゲームとアートがオーバーラップし、結合し、衝突し、その他の形で相互作用するありかたの精妙さについては、大きく未開拓の領域がある。
この本の目的は、ゲーム製作者とアーティストがゲームをベースにしたアート作品を概念化し製作する手法を研究することだ。
この本は、大きく「ゲームアート」「アートゲーム」「アーティスト・ゲーム」の3種類のケーススタディで構成されている。
その後、結びとして、現代アートとゲームの価値を統合する新しい合成的な美学の分脈を検討する。